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「あきらめる」とは?仏教の四諦八正道との関係と英語についても調べてみた!

何かを諦めた事はありますか。

私は何度もあります。

つい最近も、10年あたためていた夢を諦めたばかりです。苦しいです・・・。

諦める」という事について、仏教との関係や英語にしたらどうなるか、ちょっと調べてみましょう。

★諦めるとは?

大抵の人は、生きていくうちに何かを諦めなければいけない事のひとつやふたつ、あるのではないでしょうか。

辛いし、がっかりしてしまいますよね。

諦める。あきらめる

この言葉には、どんな意味があるのでしょうか。

★諦める・あきらめる・明らめる

諦めるという言葉を調べてみると、だいたい2種類の意味が出てくるようです。

例えば、Oxford Languagesというネットの辞典によると、次のように書いてありました。

  1. 【諦める】 《下一他》とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。 「夢を―な」
  2. 【明らめる】 《下一他》事情・理由をはっきり見定める。

そうかー。あきらめるという漢字は2種類あったんですね。

仕方がないと思い切る。私はこっちの意味で「あきらめる」を使っていましたね。

「明らめる」の方の意味では使っていなかったなぁ。

★「諦」は仏教用語!?四諦八正道とは

あきらめるという言葉には、「諦める」と「明らめる」の2種類の漢字がありましたね。

多くの人は、「諦める」の方の漢字が思い浮かぶのではないでしょうか。私もその一人です。

さて、その「諦める」は仏教用語が由来なのだそうですよ!

仏教の教えに「四諦」と「八正道」というものがあります。

どうやら、「諦める」という言葉はこの四諦八正道と関係が深いようなのです。

四諦とは

四諦について様々なサイトで解説されていますが、その中から真宗大谷派東本願寺真宗会館のHPに書いてある内容を紹介しましょう。

また仏教には四諦八正道という教えがあります。まず、四諦とは、「諦」は真理という意味で、四つの真理「苦諦、集諦、滅諦、道諦」に従って歩みなさいと教えます。「苦諦」は人生は苦であるという真理、「集諦」は苦が生じる原因とは何かという真理、「滅諦」は苦が消滅された状態とは何かという真理、「道諦」は苦を滅した状態に至る修行とは何かという真理です。この四つの真理を認識しなさいということです。八正道は覚りに至る八つの正しい道のことです。

なんと、「諦」は真理という意味だったのですね!

人生は苦である。苦が生じるには原因がある。苦が消滅された状態とはどのようなものか。

そして、苦を滅した状態に至る修行を、八正道というのだとか。

八正道とは

八正道について真宗大谷派東本願寺真宗会館のHPは次のように解説しています。

苦の消滅を求めるための方法は、非常にシンプルなものです。苦の原因は煩悩であり、苦の消滅は煩悩を滅した静かな境地に至ることであり、その境地に至るには、正しい生活、正しく物事を見る、正しく考える、正しい言葉を使う、正しい行いをする、正しい努力をする、正しい心の落ち着きをする、正しい精神統一をする、というものです。

「正しい生活」「正しく見る」「正しく考える」「正しい言葉」「正しい行い」「正しい努力」「正しい心の落ち着き」「正しい精神統一」

実行はかなり困難を伴いますよね。

何が「正しい」のか、学ぶ必要もあります。

八正道の実行こそが、人生をかけた修行なのでしょうね。

★「諦める」や「四諦」は英語で何という?

私、英語を勉強しているんです。

真面目に勉強していないのでTOEICの点数もなかなか上がりませんけど・・・。

なので、「諦める」って英語でなんというのか、とても興味があります。

weblioで調べてみましたよ!

  • 〈断念する〉 give up 《an idea》; abandon
  • 〈観念する〉 resign [【形式ばった表現】 reconcile] oneself 《to》; be resigned [reconciled] 《to》; accept the situation; make up one’s mind 《to something》

あー、give up ねー。知ってる単語だ!

abandonresignは使ったこと無いな・・。覚えておこう。

では「四諦」の英訳があるのか、weblioで調べてみましょう。

ありました!The Four Noble Truths です!

4つの尊い真実、っていう和訳になるのかな?私の勝手な訳ですけど・・・。

★現実を知り甘夢を諦めた私の経験

実は私、先ほども触れた通り、この10年あたため続けていた夢というか目標を、数ヶ月前にキッパリ諦めた事がありました。

思いもよらなかったコロナのパンデミック

それに加えて自分の見通しの甘さや愚かしい程の過信

当然やれるだろうーとタカを括っていたのが、見事に覆されました。

自分って、必要とされてないんだな。

全く実力不足だったのに、できると思っていた自分が恥ずかしい—。

もう私の人生はおしまいだわ。

そんな風に落ち込みましたよ。

でも、四諦の教えを知れば、人生は苦である、自分の思い通りにはならない、という事がわかります。

八正道を頑張っていけば、自分のちっぽけさを知り、どうにもならない事への執着が消えて諦めることができる、ということなのでしょうね。

★何ひとつ自分の思い通りにならないのね。人生って。

生きてると苦しいことが次々とやってくる。

でも、その「苦しい」と思っていることを正しく見てみると、実は苦しい事では無いのかもしれない。

正しい見方で正しい行いをしていけば、苦しみから解放されるのです。

これまで何度か仏教に関する本を読んだことがあります。

その中でとても印象的だったエピソードを書き留めておきたいと思います。

何ひとつ自分の自由にできないというお話

「自分の手の爪に入っているゴミを見てみなさい。その小さなゴミさえも自分の思い通りにならないのだ

とお釈迦様がおっしゃった、という話です。

手の爪のゴミだったか、手のひらのしわに入ったゴミだったか、ちゃんと覚えていないのですが、そんな内容のお話でした。

私はその箇所に、とても感銘を受けたんですよ。

手先にいつの間にかついてる汚れでさえ自分でコントロールできないのに、自分の人生や、まして他人の人生などコントロールできるはずがないじゃないか!とハッとしたんですよね。

死別の苦しみを諦めるお話

それから、子どもが亡くなったことを嘆き悲しみ、生き返らせてほしいとお釈迦様に頼んだ女性のお話も印象的でしたね。

誰も亡くなった人が無い家から、何かを持ってきたら生き返らせてあげる、とお釈迦様が女性に伝えました。

何を持って来るのか、詳しくは忘れてしまいましたけど・・・・

女性は村の家を全てまわりましたが、亡くなった人が出ていない家は一軒もありませんでした

人は必ずこの世から去ってしまう。誰でも死別の悲しみを味わっている。

自分だけが悲しいのではなく、誰でも同じ悲しみを経験している

女性はそれを悟り、子どもの死を諦めたのです。

私には子どもはいませんが、ペットの死はとてもとてもとても辛いものでした。

失った悲しみは、どうにも諦められるようなものはありませんでした。

今でも色々悔やんで泣いてしまいますが・・・この苦しみは私だけが味わっているのではないんですよね。

諦めないと。

★諦めきれないけど、あきらめよう

四諦八正道

この教えを知ると、諦めつかない事もあきらめることができそう。

私は仏教徒ではないけど(我が家の宗教は神道なんですよ)四諦八正道を実行したいと思います!

あ、キリスト教だってヒンズー教だってイスラム教だって、どの宗教にも真理があるのでとても勉強になります。

お金儲けの宗教はちょっと…って思うけど、宗教って人生哲学なんだなぁ~と思っています。

仏教はとくに日本人の私の心に響く感じがしますね。

あきらめきれない沢山の事を、正しく明らかに見て、諦めよう

そう思いました。

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